「アートが山をのぼること」を終えて。。。1 展示を振り返る
「アートが山をのぼること」が終わり千葉から東京に戻り、間もなく1週間がすぎる。。。
確実に今後の僕達出展アーティストの活動に大きな影響を残したこの展示だが、同世代のアーティストにあまり見てもらえなかったのは少し残念である。
とは言っても、多い日では1日300人を超える来場者様にお越しいただき本当に感謝したい。
記事をとりあげてくださったNHKや房日新聞、カロンズネット、CLIPさま、他多くの方々に改めてお礼申し上げます。
また、わざわざお超し頂いた市役所の方々、ボラティアガイドの皆様にもお礼申し上げます。少しでも今回のイベントが今後の文化事業の御役になれば嬉しいです。
今回、僕はこのレジデンスと展示の期間中いやでも自分のしている現代アートというモノと真剣に向かい合わずにはいられなかった。
というのも言語も通じない国で、いかにして自分の気持ちを伝えるかではないが、現代アートはおろか普通の美術作品にもあまり触れたことが無い人達が多い場所で表現をする事について本気で向かい合わなければならなかったからだ。
僕は学部時代からVIA ARTなどの運営に加わり、日本で社会とアートをもっと近づけようと考えてきた。
一般大学の学生を巻き込みアートの面白さ、身近さを伝えようとしてきた。
しかし、回数を重ねるごとに結局、美大生のためのイベントになっていた。
そんなことは良くあることかも知れないが、結局美大生が求めていた社会とはアートワールドであり本当の意味での社会ではなかったのだ。。。
しかし、今回のこのレジデンスの様な場では嫌でも社会(地域)とのつながりを意識しなければならない。また他の地域プロジェクととの違いをあげるならば(いくらでもあるが。。)、今回のこの展示は無料であり、アートファン以外の方が来やすいことや。今でも多くの方がお参りに来る大本山でありアートがお寺の機能を超すことが無いこと。助成金などでは無くほぼ全てアーティストの実費で行なっており、そこには経済的つながりが発生すること。市など行政が中心でないため作家への責任がダイレクトにおこる。運営と作家が同じであること。コマーシャルギャラリーで発表している作家が混じっていること。などなど
僕が知る限り、このような無謀なある意味作家泣かせな企画は知らない。
はっきりいって馬鹿げているし、今でも開催できたのが奇跡だと思っている。
もし、もう一度同じ企画をしろと言われてもなかなか出来ないだろう。
ちょっと大げさに書き過ぎかもしれないが、僕の認識ではそうなのだ。
もし出来ると言う方は是非ご自分でなさって欲しい。こういうアーティスト単位の大きな展示が日本で増えれば少しは日本の文化力も上がるだろう。近年地方展が多くおこなわれるようになった様にアーティスト単位の活動が増えるのを僕は期待している。既存のフォーマットにのるのではなく、独自の方法を作り上げるにはアーティスト単位の活動がもっと必要だ。
熱くなってしまった。。話を戻そう。
今回、僕は現代アートの言語が使えない場所で展覧会をするにあたって、僕達がいかに普段特定のコミュニティー言語ばかりで話をしていたかに気がついた。
『アート』という言葉もそうだが、普段僕達が何気なく使う言語も、あばちゃん達には不思議な言葉。
おばちゃん達は僕達を『アート様』って言うんです。さすがに複雑な気持ちになりました。。。
しかし、それくらい日本ではアートは身近に無いんですね。
「現代アートは、海外が本場だしある程度の勉強が必要だから仕方が無い」といってしまえば簡単ですが、本当にそれでいいのだろうか。
また、どうやっても西洋人にはなれない私達日本人が海外のルールにそこまでのる意味は何なのだろうか。(単なるマーケットの問題か?)
もちろん現代アートのコンテキストは学ばなけれならないが、コンテキストとは乗り越えるべきためのものであると僕は考える。
日本の現代アートと言う言葉を使っていいかわからないが(そもそも現代アートが日本のものでないから)
もし、現代アートの手法を使い日本という国と本気で向かい合えるならば新たな表現が生まれてくると思うのだ。(それは海外からみたJapanなどではなく)
そんなことを考えつつ、『アート様』からどうやって始めるかを考えた。
黒澤明が昔なんかの本で『解るやつに解ればいい。解らないやつには楽しませればよい。』といっていたが、それは結構的を得ていて、万人に解るはずの無い現代アートでも何か気配とか空間を楽しませることはできる。
またそういった感覚が作品を理解するための入り口になることがある。
とりあえず、おばちゃん達を置き去りにしたくないので、楽しませることを考えながら自分の道を進むしかなかった。。。
自分の道を進まなければきっとどっち付かずになってしまうから。きっと現代アートの見方を知らなくても伝わるはずだと信じて。。。。

平川恒太 <作品番号47、どこから来たか、どこへ行く>2011/インスタレーション/サイズ可変
*作品番号41~46からなるインスタレーション
そして、今回上の作品を制作した。作品は人間と自然の関係をテーマにしたもので清澄寺のある清澄山の自然をリサーチし、物語を制作していった。

平川恒太<作品番号48、誰かの絵画>2011/パフォーマンス、立体、絵画/サイズ可変

本作品は、清澄寺の境内4カ所に設置。毎朝9時から木の間に吊るされた和紙に清澄の土と水と風で絵を描く。 描く筆は2mで不安定な画面に描く事から身体性以上に環境に左右される。それはまるで自分の絵であるのにそうで無いかのようだ。夕方には、これらの作品を燃やしまた土に帰す。
これらの行為を期間中ほぼ毎日行なった。時には来場者にも描いてもらい、描く難しさを体験してもらった。
この作品をはじめた1日目には風により描けず、紙がぐちゃぐちゃになってしまったが、画家という生き物は不思議なことに3日もするとなれ始め絵画になっていく、会期中の10日ほどではどうにか絵画にするまでにとどまったが画家の身体を見せることができた。また絵画とは何なのか?誰のものなのか?何が出来るのか?という問いが少しだせた。




和紙は燃える際、とても早く燃え灰となり燃え上がると同時に花びらの様に散る。
実際今回の作品がどこまでアートと初めて関わる人達に伝わったかは解らない。しかしそれなりに楽しんでくれたようだった。
逆に少し絵をやって来ていたり、美術に触れたことがある人の方が、今まで見たことが無い現代アートのフォーマットに悩んでいたようだ。。。確かに100パーセント解ろうと思ってみたら現代アートは解らないだろうな。。。
やっと人生のなかで僕がアートとどう付き合うべきか見えてきそうだ。。。
最後に他の作家の作品も少し紹介しよう。(あまり僕のカメラで写真とらなかったので一部の作品を紹介する)

斎藤春佳の作品 *他にも斎藤さんはたくさん作品を出品、今年に入りワンダーウォール賞や福沢一郎賞などを受賞し今活躍中の作家。いろいろな引き出しを常に持っていて、いつも驚かされる!!



尾家杏奈の作品 *僕が大好きなペインター。今回も尾家ワールド炸裂でした。日蓮宗のお寺と言うこともあり日蓮聖人の物語などを絵画にしていたが、あっさりと自分の世界に引き込む所は本当にスゴい!!


これも斎藤さんの作品 *お寺の伝承などをもとに制作

これも斉藤さん上の作品と同じ方法論をとっていながらも作品が含む物語性は異なる。このシリーズは卒制前から続く斎藤さんの代表作の1つ。かな?



上記の2作品は山口真和の作品 *山口は今回の作家の中でも1番土地や伝承のリサーチをおこなっていた。今回の作品はそのなかで山口が普段からテーマにしている行進などの人間の意識が向かう場所、意志と視線と環境の関係のようなモノをお寺の伝承と共に表現していた様に思う。

千ヶ崎くんの作品はかっこよかったなー!!
詳しくは:http://artyamanoboru.blogspot.com/2011/08/blog-post_27.html
最後に藤野くん

今回最年少の参加作家なのに、皆をまとめてたなーーありがとう。
この他にも見所満載でしたが、この展示の重要なのは東京から遠いこと!!
つまりどうしても移動時間(旅)が展示に付随する所だ。これは否定しようがない。
僕はこの作品と出会うまでの時間も作品にしたかった。そこである方法を考える。。。バスツアー。
しかし、もう話しすぎたこのお話しは次回にしよう。
関連記事:
カロンズネット
http://www.kalons.net/index.php?option=com_content&view=article&id=6660&catid=0&lang=ja
房日新聞
http://www.bonichi.com/News/item.htm?iid=5652&TXSID=gu7ele1ogblbk4k1u7brfi7r77
確実に今後の僕達出展アーティストの活動に大きな影響を残したこの展示だが、同世代のアーティストにあまり見てもらえなかったのは少し残念である。
とは言っても、多い日では1日300人を超える来場者様にお越しいただき本当に感謝したい。
記事をとりあげてくださったNHKや房日新聞、カロンズネット、CLIPさま、他多くの方々に改めてお礼申し上げます。
また、わざわざお超し頂いた市役所の方々、ボラティアガイドの皆様にもお礼申し上げます。少しでも今回のイベントが今後の文化事業の御役になれば嬉しいです。
今回、僕はこのレジデンスと展示の期間中いやでも自分のしている現代アートというモノと真剣に向かい合わずにはいられなかった。
というのも言語も通じない国で、いかにして自分の気持ちを伝えるかではないが、現代アートはおろか普通の美術作品にもあまり触れたことが無い人達が多い場所で表現をする事について本気で向かい合わなければならなかったからだ。
僕は学部時代からVIA ARTなどの運営に加わり、日本で社会とアートをもっと近づけようと考えてきた。
一般大学の学生を巻き込みアートの面白さ、身近さを伝えようとしてきた。
しかし、回数を重ねるごとに結局、美大生のためのイベントになっていた。
そんなことは良くあることかも知れないが、結局美大生が求めていた社会とはアートワールドであり本当の意味での社会ではなかったのだ。。。
しかし、今回のこのレジデンスの様な場では嫌でも社会(地域)とのつながりを意識しなければならない。また他の地域プロジェクととの違いをあげるならば(いくらでもあるが。。)、今回のこの展示は無料であり、アートファン以外の方が来やすいことや。今でも多くの方がお参りに来る大本山でありアートがお寺の機能を超すことが無いこと。助成金などでは無くほぼ全てアーティストの実費で行なっており、そこには経済的つながりが発生すること。市など行政が中心でないため作家への責任がダイレクトにおこる。運営と作家が同じであること。コマーシャルギャラリーで発表している作家が混じっていること。などなど
僕が知る限り、このような無謀なある意味作家泣かせな企画は知らない。
はっきりいって馬鹿げているし、今でも開催できたのが奇跡だと思っている。
もし、もう一度同じ企画をしろと言われてもなかなか出来ないだろう。
ちょっと大げさに書き過ぎかもしれないが、僕の認識ではそうなのだ。
もし出来ると言う方は是非ご自分でなさって欲しい。こういうアーティスト単位の大きな展示が日本で増えれば少しは日本の文化力も上がるだろう。近年地方展が多くおこなわれるようになった様にアーティスト単位の活動が増えるのを僕は期待している。既存のフォーマットにのるのではなく、独自の方法を作り上げるにはアーティスト単位の活動がもっと必要だ。
熱くなってしまった。。話を戻そう。
今回、僕は現代アートの言語が使えない場所で展覧会をするにあたって、僕達がいかに普段特定のコミュニティー言語ばかりで話をしていたかに気がついた。
『アート』という言葉もそうだが、普段僕達が何気なく使う言語も、あばちゃん達には不思議な言葉。
おばちゃん達は僕達を『アート様』って言うんです。さすがに複雑な気持ちになりました。。。
しかし、それくらい日本ではアートは身近に無いんですね。
「現代アートは、海外が本場だしある程度の勉強が必要だから仕方が無い」といってしまえば簡単ですが、本当にそれでいいのだろうか。
また、どうやっても西洋人にはなれない私達日本人が海外のルールにそこまでのる意味は何なのだろうか。(単なるマーケットの問題か?)
もちろん現代アートのコンテキストは学ばなけれならないが、コンテキストとは乗り越えるべきためのものであると僕は考える。
日本の現代アートと言う言葉を使っていいかわからないが(そもそも現代アートが日本のものでないから)
もし、現代アートの手法を使い日本という国と本気で向かい合えるならば新たな表現が生まれてくると思うのだ。(それは海外からみたJapanなどではなく)
そんなことを考えつつ、『アート様』からどうやって始めるかを考えた。
黒澤明が昔なんかの本で『解るやつに解ればいい。解らないやつには楽しませればよい。』といっていたが、それは結構的を得ていて、万人に解るはずの無い現代アートでも何か気配とか空間を楽しませることはできる。
またそういった感覚が作品を理解するための入り口になることがある。
とりあえず、おばちゃん達を置き去りにしたくないので、楽しませることを考えながら自分の道を進むしかなかった。。。
自分の道を進まなければきっとどっち付かずになってしまうから。きっと現代アートの見方を知らなくても伝わるはずだと信じて。。。。

平川恒太 <作品番号47、どこから来たか、どこへ行く>2011/インスタレーション/サイズ可変
*作品番号41~46からなるインスタレーション
そして、今回上の作品を制作した。作品は人間と自然の関係をテーマにしたもので清澄寺のある清澄山の自然をリサーチし、物語を制作していった。

平川恒太<作品番号48、誰かの絵画>2011/パフォーマンス、立体、絵画/サイズ可変

本作品は、清澄寺の境内4カ所に設置。毎朝9時から木の間に吊るされた和紙に清澄の土と水と風で絵を描く。 描く筆は2mで不安定な画面に描く事から身体性以上に環境に左右される。それはまるで自分の絵であるのにそうで無いかのようだ。夕方には、これらの作品を燃やしまた土に帰す。
これらの行為を期間中ほぼ毎日行なった。時には来場者にも描いてもらい、描く難しさを体験してもらった。
この作品をはじめた1日目には風により描けず、紙がぐちゃぐちゃになってしまったが、画家という生き物は不思議なことに3日もするとなれ始め絵画になっていく、会期中の10日ほどではどうにか絵画にするまでにとどまったが画家の身体を見せることができた。また絵画とは何なのか?誰のものなのか?何が出来るのか?という問いが少しだせた。




和紙は燃える際、とても早く燃え灰となり燃え上がると同時に花びらの様に散る。
実際今回の作品がどこまでアートと初めて関わる人達に伝わったかは解らない。しかしそれなりに楽しんでくれたようだった。
逆に少し絵をやって来ていたり、美術に触れたことがある人の方が、今まで見たことが無い現代アートのフォーマットに悩んでいたようだ。。。確かに100パーセント解ろうと思ってみたら現代アートは解らないだろうな。。。
やっと人生のなかで僕がアートとどう付き合うべきか見えてきそうだ。。。
最後に他の作家の作品も少し紹介しよう。(あまり僕のカメラで写真とらなかったので一部の作品を紹介する)

斎藤春佳の作品 *他にも斎藤さんはたくさん作品を出品、今年に入りワンダーウォール賞や福沢一郎賞などを受賞し今活躍中の作家。いろいろな引き出しを常に持っていて、いつも驚かされる!!



尾家杏奈の作品 *僕が大好きなペインター。今回も尾家ワールド炸裂でした。日蓮宗のお寺と言うこともあり日蓮聖人の物語などを絵画にしていたが、あっさりと自分の世界に引き込む所は本当にスゴい!!


これも斎藤さんの作品 *お寺の伝承などをもとに制作

これも斉藤さん上の作品と同じ方法論をとっていながらも作品が含む物語性は異なる。このシリーズは卒制前から続く斎藤さんの代表作の1つ。かな?



上記の2作品は山口真和の作品 *山口は今回の作家の中でも1番土地や伝承のリサーチをおこなっていた。今回の作品はそのなかで山口が普段からテーマにしている行進などの人間の意識が向かう場所、意志と視線と環境の関係のようなモノをお寺の伝承と共に表現していた様に思う。

千ヶ崎くんの作品はかっこよかったなー!!
詳しくは:http://artyamanoboru.blogspot.com/2011/08/blog-post_27.html
最後に藤野くん

今回最年少の参加作家なのに、皆をまとめてたなーーありがとう。
この他にも見所満載でしたが、この展示の重要なのは東京から遠いこと!!
つまりどうしても移動時間(旅)が展示に付随する所だ。これは否定しようがない。
僕はこの作品と出会うまでの時間も作品にしたかった。そこである方法を考える。。。バスツアー。
しかし、もう話しすぎたこのお話しは次回にしよう。
関連記事:
カロンズネット
http://www.kalons.net/index.php?option=com_content&view=article&id=6660&catid=0&lang=ja
房日新聞
http://www.bonichi.com/News/item.htm?iid=5652&TXSID=gu7ele1ogblbk4k1u7brfi7r77
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